ヒストリカルジュエリー ミニアチュールポートレート 細密肖像画 リング 指輪 ウィリアム・ジョージ・フレデリック・キャヴェンディシュ=スコット=ベンティンク卿 アンティークジュエリー
英国のエリザベス女王の血筋に関係する希少なヒストリカルジュエリーをご紹介致します。
ミニアチュールの出来栄えの素晴らしさ、リングの作りの仕上がりの美しさ
この2点からも、このリングが特別に作られたものであることが伝わってくるジュエリーです。
これは、ポートランド第3代公爵ウィリアム・キャベンディッシュ=ベンティンク卿の息子であり、
イングランド首相を務めたポートランド第4代公爵のウィリアム・キャベンディッシュ=ベンティンク卿の末っ子、
ウィリアム・ジョージ・フレデリック・キャベンディッシュ=スコット=ベンティンク卿(1802年~1848年)の
細密な肖像画がアイヴォリーに描かれた、非常に質の高い歴史的な回転式のゴールドリングです。
このリングは回転式となっており、青年期と幼少期の細密画がセットされています。
二つの肖像画は二人の異なる細密画家の手によるものと思われます。
幼少期の肖像画は、フレームが作られるより前のものが再利用されたか、
あるいはより古い肖像画をもとに、指輪のために作られたものです。
青年期の肖像画は、英国将校の赤服に身を包んだジョージ・ベンティンクを描いており、
彼が第9女王王立槍騎兵連隊の騎兵将校だった時代(1818年〜1821年)のものです。
Lord George Cavendish Bentinck
by Samuel Lane circa1836
退役後は外務省の外交官となりイギリス議会の著名な議員になりました、
1836年のサミュエル・レーンの絵に描かれています。
細密画のスイベルリングに書かれたのは彼が16歳〜19歳の時、
肖像画は彼が34歳の時ですから肖像画の方が年齢を重ねた姿です。
また、競走馬のブリーダーとしても有名でした。
1848年、彼は結婚することなく、また子供もいないまま、彼が生まれた一族の城、
ウェルベック修道院からそう遠くないところで脳卒中で亡くなりました。
この指輪は、おそらく1818年頃、
彼女が将校に任命された時に母であるヘンリエッタ公爵夫人(1774年~1844年)の
依頼で作られたものと考えられます。
夫人は結婚前には「née Scott of Fife(スコットランドの裕福な娘)」の愛称で呼ばれていました。
このことからも、細密画とフレームの仕上がりが非常に高品質である理由がわかります。
1844年にヘンリエッタ公爵夫人が亡くなった後も、
この指輪はキャベンディッシュ・ベンティンク家に残されていたに違いありません。
1848年に建てられたブロンズ像は彫刻家トーマス・キャンベルが手がけた等身大のもので、
ロンドン中心部のキャベンディッシュ・スクエアに据えられています。
その台座にはこう書かれています。
ウィリアム・ジョージ・フレデリック・キャベンディッシュ=ベンティンク卿 1848年没
(William George Frederick Cavendish Bentinck Died MDCCCXLVIII)
彼に最も近いいとこであるチャールズ・キャベンディッシュ・ベンティンク卿は、
現在のイングランド女王エリザベス2世の曾祖父です。
チャールズ・キャベンディッシュ・ベンティンク卿や彼の家系図について少しお話し致します。
父 チャールズ・ベンティンク中佐
母 アン・ウェルズリー(元レディー・アッディ)
1817年、ケンジントンに生まれたベンティンクは、
父チャールズ・ベンティンク中佐と母アン・ウェルズリー(元レディー・アッディ)の長男として生まれました。
ベンティンクには弟のアーサー・キャベンディッシュ・ベンティンクと、二人の姉妹アンとエミリーもいました。
父方 祖父 ポートランド公爵ウィリアム・キャベンディッシュ=ベンティンク
父方 祖母 ドロシー・ベンティンク
ベンティンクの父方の祖父母は
イギリスの首相である第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャベンディッシュ=ベンティンクと、
同じく首相である第4代デボンシャー公爵ウィリアム・キャベンディッシュの娘ドロシー・ベンティンクです。
母方 祖父 リチャード・ウェルズリー初代ウェルズリー侯爵
祖母 ヒヤシンス・ガブリエル・ローラン
母方の祖父母は、
リチャード・ウェルズリー初代ウェルズリー侯爵と
妻のヒヤシンス・ガブリエル・ローラン(パレ・ロワイヤルの元女優)です。
インド総督を務めたウェルズリーは、同じく首相を務めた初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーの兄でした。
ベンティンクは父方の祖父である第3代公爵が学長を務めていたオックスフォードのマートンカレッジで教育を受け、
1837年6月1日に入学し、その後オックスフォードのニューインホールで学び、
ベンティンクは1845年に学士号を取得し、1846年には修士号を取得しました。
ベンティンクは、オックスフォード大学在学中の1839年9月26日、
ハノーバー・スクエアのセント・ジョージズで、最初の妻シネッタ・ランボーンと結婚しました。
学位を取得した後、ベンティンクはイングランド国教会の牧師になる意志を固め、
ベッドフォードシャー州ハスボーン・クロウリーの牧師に任命され、
第7代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセルから聖職禄を受理しました。
ベッドフォードシャー リドモント
1849年11月23日、ベッドフォード公爵は彼をベッドフォードシャーのリドモントの牧師に任命し、
どちらの小教区でも、彼はウィリアム・チャールズ・キャベンディッシュ・ベンティンクとして知られていました。
叔父の第4代ポートランド公爵ウィリアム・ベンティンクが1854年3月27日に亡くなり、
彼の4人の息子は全員未婚か死亡していたため、ベンティンクがポートランド公爵になる可能性が高まっていました。
長男のティッチフィールド侯爵ウィリアムは1824年に亡くなり、
今回ご紹介している細密画のジョージ卿は1848年9月21日に亡くなっています。
風変わりなウィリアム卿(父の後を継いで第5代ポートランド公爵となった)と末っ子のヘンリー卿は、
いずれも未婚のままでした。
ヘンリー卿の次の相続人はベンティンク自身でしたが、彼にもまた当時は子供がいませんでした。
妻 シネッタ・ランボーンの墓
妻のシネッタは1850年2月19日に間膜症のためにアンプシルで亡くなり、
ベンティンクは寡夫となり、子供たちは一人も残っていませんでした。
二番目の妻 キャロライン・ルイザ・バーナビー
1859年12月13日、ベンティンクは二度目の結婚をしました。
花嫁はキャロライン・ルイザ・バーナビーで大地主のエドウィン・バーナビーと
アン・キャロライン・サリスベリーの娘でした。
妻との間には3人の女の子が生まれました。
セシリア・ニーナ・キャヴェンディッシュ=ベンティンク
3人の娘のうちの一人、セシリアは
ストラスモア伯爵クロード・ジョージ・ボーズ=ライアンと結婚します。
2人の間には6人の男の子と4人の女の子、合わせて10人の子供が生まれました。
四女 エリザベス・アンジェラ・マーガレット・ボーズ=ライアン
セシリアの四女のエリザベス・アンジェラ・マーガレット・ボーズ=ライアンは後のジョージ6世、
ヨーク公アルバートと結婚します。
二人の間には女の子が二人生まれます。
ジョージ6世とエリザベス・アンジェラ・マーガレット・ボーズ=ライアンの結婚式
2人の娘のうち1人はスノードン伯爵夫人マーガレット王女、
もう一人はエリザベス・アレクサンドラ・メアリー・ウィンザー、現在のエリザベス女王です。
お写真では分かりにくいですが、驚くほどに高品質な作りの指輪です。
回転式のスイベルリングとして類を見ない出来栄えで、
作りは勿論、非常に滑らかに動きます。
ミニアチュールポートレートで人物が特定できるものは著名な人物に限りますし、
イギリス王室の血筋に関係する非常に希少なヒストリカルジュエリーです。
ヒストリカルジュエリーのコレクションにもぴったりのお品物だと思います。
ぜひ、この機会にお問い合わせください。